思えば、僕は八重のことを何も知らなかった。此の屋敷に住んでいると云うこと以外には、何も。
赤銅色の
屋敷の中は酷く涼しく、常に水音が何処からか響いていた。落ちる雫の音色。通る風は潮の香りで、海辺に建っているかのようで。
「……勝之助様、」
まるで現実味がない。外観の醸す雰囲気同様、内部も又。
「
けれども其れは、至極当然のことであろう。人形屋敷に住まうセルロイド。僕の其の認識が、初めから間違っていたのだから。
壁に手を突きよろよろと
白い肌、亜麻色の髪。気遣いの色を浮かべた蒼玉の瞳。そして、先程の八重の言葉。全てが僕を受け容れ、僕を拒絶する。
ふと足元に目を遣った。当然の如く、八重には両の足がある。僕とは違う。知っていた。判っていた。けれども其れが故に、僕はこうして。
恐ろしくないと言えば嘘になる。信じているとも言い切れない。均衡を欠いた感情は、其れでも尚、八重に従えと告げている。其方に進めと告げている。
「勝之助様。」
片開きの窓を見詰め、八重が口を開く。
風が吹き込み陽光の揺れる其の場所は、境界線。人間と人形との。
否、人間と。
「本当に後悔、なさいません、」
人
「ええ。……決めましたので、」
ごくり。唾を飲み込む音。緊張と恐怖と期待と希望の入り混じる、何とも形容し難い感情。果たして本当に、此れで良いのであろうか。感情の赴くままに行動し、後悔しないと言えるのであろうか。
窓を見遣り、拳を握った。人形のままで居続けるより、八重の言うようにした方が良い。自分にそう、言い聞かせるが如く。
「不思議な方ですわね、勝之助様って。」
冷たい掌で頬に触れ、八重がにっこりと微笑んだ。
「……そう、ですか、」
釣られて僕も、笑顔を浮かべた。水の音。潮の香りが、鼻を
「そうですわ。」
けれども其れで、良いと思う。
「私の姿が見えるだけでなく、こうして受け容れて下さるなんて。」
八重が何者であったとしても、僕の存在を認めてくれたことに変わりはない。人間であるか否かなど、些細な問題に過ぎないのだ。
僕にとって。人形にとって。
「当り前です、」
僕を奇異の目で見なかったのは。有りの
「貴女が、」
僕の存在を肯定してくれたのは。心からの笑顔を向けてくれたのは。
「……初めて、だったのですから。」
一方的な感情であれ、八重に親しみを感じたのは、極当然の成り行きであった。欠落の内容こそ違えど、似たような立場に変わりはない、と。
僕が失ったものは、否、初めから失っていたものは、足。八重が失ったものは、失ってしまったものは。
「私も、久々でしたわ、」
人であること。輪廻転生。
「こうして話が出来る方に、御逢いするのは。」
人形屋敷のセルロイド人形。正しいようで、間違った認識。八重の美しい眉目は、セルロイド人形と形容しても、差し支えがないであろう。併し、屋敷は。
開け放たれた片開き窓から、強い風が吹き込んで来た。八重の髪を乱し、僕の
「……勝之助様、」
呟き、八重は帯から短刀を取り出した。自らの髪を一束斬る。亜麻色の髪。風に載り、其処此処を舞う。
「私、勝之助様の御足が不自由で、良かったと思っていますの。」
きらきらと光る髪。八重の言う、足を得る方法。
「そうでなければ、
柔らかな笑顔。不安を掻き消す、優しい。
「ええ、」
縫い包みの足を持っていて良かったと、初めて自分を肯定した。人の輪から外れることに恐怖はあるが、恐らく僕は、初めから。
「不思議なものですわ、本当に。」
欠落を抱え産まれて来たときから、僕は。
「……私の目には、勝之助様の御足が、
矢張り、決まっていたのだ。八重の言葉を噛み締めるよう、ゆっくりと、目を閉じた。次に目を開くとき、僕はもう人形ではない。縫い包みは必要ない。僕は、自らの足を得る。
「だから初めて会ったとき、御仲間かと思いましたのよ、」
慈しむような八重の囁き。唇に触れる指、頬を撫ぜる風。潮の香り、八重の香り。仮初めを捨てる恐怖を、優しく包み込むように。
「どうか、遠慮なさらず、」
口を開き、八重を受け容れた。滑らかで冷たい指が、僕の口内を這い回る。些かの戸惑い。行為に、恐怖する。併し。
「……噛み千切って、下さいまし。」
誘うよう、歯に触れる指先。促され、僅か力を込めた。
硬く柔らかな感触。塩漬けの魚に似ている。人の肉は皆、此のような味がするのであろうか。或いは、八重だからこその。人非ざる者だからこその。
充分な咀嚼を繰り返した。飲み込むべく、受け容れるべく。八重の仲間になる為に。湧き上がる罪悪と恐怖と期待を抑え、此れが何であるのかを、考えることを放棄して。小さな欠片の残る口内。一息、飲み下す。
じんわりと広がる、鉄の味。口内に纏わる、塩の味。道を外れる恐怖と、足を得られるであろう歓喜。冷たい八重の千切れた指先が、仄僅か、熱を帯びた。
拳から力を抜き、手を開く。包み込む、磯の香り。狂う平衡。踏み締める、両の脚。
「痛くは、ないのですか、」
ゆっくりと目を開く。目の前には八重の姿。先程迄と変わらぬ姿。蒼玉色の美しい瞳に、滑らかな白い肌の色。切られた髪は、元に戻り。併し。
「人魚の身体は痛みとは無縁なのですわ。空腹や、怪我。其れに、……全ての、苦痛とは。」
酷く眩しく感じた。片開きの窓から差す、西日に因るものなのかもしれない。
「全ての、苦痛ですか、」
或いは。
「ええ、全ての。だから、仇なす者とも無縁なのですわ。」
否、間違いなく。
目映さに目を細め、八重の指先を見た。僕が飲み込んだはずの其れが、当り前に其処にある。何事もなかったかのように。確かに苦痛を与えぬように。
思い立ち、自分の指先を噛み千切った。口の中に感触はあるが、指先の痛みは感じない。屹度、同じであろう。まだ慣れぬ身体を弄ぶ僕を見詰め、ころころと笑んでいる八重も。
「聞いたこと、御座いませんか、」
慈しむよう可笑しむよう、八重が僕の手を握る。五本の指。絡め、言葉を紡ぐ。
「人魚の肉を食べれば、不老不死になる、と。」
均衡に気を付け、足を動かす。左に存在する、其れ。
「……昔、ばあやに聞いたような気がします。」
僕は、人形ではなくなった。
「彼の話、半分だけ本当ですの、」
否、人間ではなくなったのだ。
「不老不死の、人魚になるのですから。」
赤銅色の紬を揺らし、八重が微笑む。足元を見遣ると其処には、半透明の鮮やかな尾鰭が見えた。
海辺から続く真っ直ぐな坂の上に、大きな屋敷が二棟
まるで玩具のように非現実的な雰囲気を醸し出している其れは、とても奇妙な建物であった。
曰く“人魚御屋敷”。不可思議な其の響きが、如何にも良く似合っている。
人魚御屋敷――否、人形屋敷の中を、確りと両の足で歩きながら。そんな風に、僕は思った。
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