『猫と惑星』


 路地裏に、猫がいた。
 おそらく子猫。小さな額に、大きな丸い目を持っている。薄茶色の虎模様で、この辺りでよく見かける猫の、子供なのかもしれない。
 大きな瞳には警戒心を灯していて、私が声をかけても、微塵も相手をする様子など見せてくれない。
 可愛いけれど頑固そう。それが、この猫の第一印象だった。
「にゃあ?」
 自分でも気付かないはずのないくらいにひどく似ていない鳴き真似で御機嫌を窺ってみるが、当然の如く無視。猫はそのままそっぽを向いて、首筋を掻こうとし始めていた。
 けれど、足が短いせいか、うまく首元に届いていない。
 その様子がなんだかおかしくて、私はつい笑ってしまった。
「……何がおかしい?」
 どこからか、誰からか訊ねられた。だけどこの路地裏には私しかいないはずで、つまりは、この声の主は誰だというのだろうか。
 何処かで聞いたことのある声のような気もするが、判らない。軽く周囲を見回してみたが、人影も見当たらない。
 物陰に隠れているのかもしれない。けれど、わざわざそんなことをする必然性もないだろう。私は軽く周囲を見回しただけで、捜索を切り上げることにした。
 代わりに、疑問を投げかける。
「誰?」
 答えが返ってくるとは思わなかったが――というよりも、私はこの時点ではただの空耳だと信じて疑わない状況にあったのだけれど――、一応、解決方法があるのなら知りたいとも思っていたわけで。
 もっとも、答えが返ってきた方が驚くし、どうすればいいのかも判らなくなっていただろう。いや、現に。判らなくなるのだ。私は、この後すぐに。
「目の前におる」
 声の主は、私の目の前にいると告げた。目の前というのは路地裏で、当然子猫しかいなくて。だからこの声の主は。
 違う、そんなはずがない。猫が喋るなんて、御伽話にしかなり得ない。だから声の主はどこか別の場所にいて、驚く私の様子を窺って、笑っているに違いないのだ。
「目の前?」
 とはいえ、誰かが隠れているとも思えない。先ほど軽く見回しただけではあるものの、誰もいなかったことは、残念ながら確認済みで。
「そう。目の前」
 だからといって、猫が喋っているなんて信じようもなくて。
「猫?」
 それなのにそんな返ししか出来ない私は、自分で思っている以上に、混乱していたのかもしれない。
「ああ。猫って言うのか。この身体、小さくて便利でな。擬態には丁度良い」
 相変わらずいまいちな毛繕いをしながら、そっぽを向きながら猫は言う。
「よろしく、地球人」
 後ろ脚をちろちろと動かしながら、見た目にはそぐわない落ち着いた声で猫は続けた。
「して、降伏する気にはなったのか?」
 何の話だろう。とりあえず判っているのは、目の前の子猫はただの子猫ではないということで。
「コウフク?」
 だからコウフクが幸福なのか降伏なのかすら、私にはよく判らなかった。文脈から推し量るという行為を疎かにせざるを得なかったから、仕方がないのかもしれないけれど。
 ふと、猫は身体を掻くのを止め、アスファルトの地面に身体を擦り始めた。
「一般市民はまだ知らないのか。我々、N78星雲からやって来たニャント星人のことを」
 機嫌良く転がりながら、訳の判らないことを口にする。
「一般的には宇宙人と呼ばれておる。猫というのは、仮姿に過ぎんのだ」
 今までの話を纏めると、つまりは、目の前の子猫は猫ではなくて宇宙人で、地球を征服しに来たということ、なのだろうか。
 何、これ? 新手のファンタジーにしても無茶苦茶過ぎる。大体、私は彼氏との待ち合わせでたまたまこの路地を通りかかったに過ぎないのだ。巻き込むなら、もっと影響力のある人間を巻き込んで欲しい。
「えっと、猫、さん?」
 とはいえ、もし仮にこの猫の言っていることが全て正しいとしたら、神経を逆撫でるような行為は、人類の首を絞めることに繋がり兼ねないのかもしれない。信用する気は起きないけれど、逆らうリスクを背負う気も起きなくて。
 だから、小心者の私には、少しばかり御機嫌を窺うような尋ね方しか出来なかった。
「その、何で地球に来た……ん、ですか?」
 見た目は可愛らしい子猫でも、敬語を使わないと駄目だろう。
「ああ。聞くも涙、語るも涙の話になるが、構わないか?」
 いつの間にか身体を地面で擦るのを止めていた子猫改め宇宙人は、あさっての方向を見ながら話し始めた。
「我々の惑星は、環境破壊が激しくてな。手を打ってはいるのだが、手遅れだったのだ」
 宇宙人の見つめる先には、空が広がっている。
「食料も減り、なす術もなく」
 私もつられるように、空を眺めた。
「住環境の整った別の惑星に移住をしようと計画したのだ」
 広がる空は綺麗な青で。
「そして、私はこの惑星に調査のために降り立ったのだよ」
 明後日の方角を見ていると思っていた瞳は、ひどく淋しそうな色をしていて。
「この星――地球は、悪くない星だな」
 どこかにある故郷を想っているのかもしれないと、感じた。
 ゆっくりとしっぽを揺らし、目の前の子猫風宇宙人が「にゃあ」と鳴く。本物の猫と区別がつかない程に上手な、私の鳴き真似なんて足元にも及ばないような、見事な猫の鳴き声だった。
 宇宙人の侵略。SF映画でのそれは、とても怖いことのようだったのに。
 目の前にいる本物らしき宇宙人は、とても可愛らしい見た目で、淋しげで、怖さなんて微塵も感じさせない存在で。
 思わず手を差し伸べたいと思ってしまったのは、仕方のないことだったのだ。
「どのくらい、いるんですか?」
 手を伸ばし、猫の方へと差し出す。
「この国の人口くらいかな」
 身体を伸ばし、大きく口を開き、猫は答える。
「まあ、この姿なら溶け込めるだろう」
 背中をぐっと伸ばし、しっぽをゆっくりと立ち上げ。
「降伏というか、共存だな」
 アスファルトを二、三度引っ掻くと、そのまま路地裏に歩き去ろうとした。だから。
「あ、ね、ねえ!」
 本当は、声をかける必要なんてなかったのかもしれない。それでも、私は声を発していた。
「家、来ない?」
 この提案にどんな意味があるのかは判らない。だけど、そう、提案していた。
「家さ、狭いけど。でも、あなた一匹……一人くらい、どうってことないよ?」
 私の声が聴こえていないのか、猫――宇宙人は、そのまま路地裏へ向かっている。追いかけなければ。何故か、私は背中を押された気がした。
「一緒に、帰ろ?」
 言葉使いなんて気にしていられない。今離れたら、もう二度と会えないような気がして。二度と会えないことが、淋しいような気がして。
 気付いたら、足が動いていた。子猫に手を伸ばし、抱きすくめる。
「一緒に暮らそ?」
 どこからか、くすくすと笑う声が聴こえた。けれど今の私には、そんな声は気にならなくて。ただ胸の中で小さく鳴く、猫のことしか頭になかった。
「……俺にも言ってくれりゃ良いのに」
 胸の中で猫が呟く。
「出ていくタイミング、見失ったわあ」
 違う。この声は、猫のものではなくて。宇宙人のものではなくて。
「……お待たせ」
 考えてみたら、私は何故、最初から気付かなかったのだろう。こんな単純なトリックに。
「待ったよ? 待ったけど、でもさ」
 振り返った先に立つ、彼氏の姿を確認した。私はきっと、不貞腐れているだろう。
「何であんな話するわけ?」
「何で、引っかかるわけ?」
 胸の中で暴れている子猫は、ただの猫で。あの声は。聴き覚えのあり過ぎるほどに、聴き慣れたあの声は。
「だって……」
 周囲を見回した時に気付かなかったことが、何よりも不覚。からかわれているかもしれないと、私は思っていたはずなのに。
「ま、良いんだけど」
 てのひらの上で遊ばれている。それほど嫌ではないけれど、なんだか癪に障るのも事実で。
「それより、その猫、家で飼うの?」
「飼うよ。絶対飼う!」
 彼氏の靴先を思いっきり踵で踏みつけ、そのまますたすたと歩き去る。
「……痛ってえ。てか、ちょっと待てって」
「待たない! 餌とかトイレとか買わなきゃだし」
 追いかけて来ないはずがないという、心からの信頼とともに。私はこの猫と、彼氏をコウフクさせることにした。

【完】


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