『サイレント・ナイトメア』


 真っ赤な手をした私のサンタクロースは、初めて見るようなはにかんだ笑顔で手を差し伸べて下さいました。申し訳ないことに私は少し戸惑ってしまいましたが、それでも、彼の笑顔には従わざるを得ないものが存在しております。
 私はにっこりと微笑み、彼の手に自分の手を重ねました。艶やかな赤い手は想像していたよりも滑らかで、何故戸惑ってしまったのか、自分でもよく判りません。彼の笑顔が何よりも正しいものだと云うことは、知っていたはずなのですから。
 月明かりと蝋燭の炎。ゆらゆらと揺れる彼の顔。この小さな部屋での出来事は、きっと私にとって、一生忘れられないものになるでしょう。
 サンタクロースは私の願いを叶えて下さいました。その証拠が、彼の赤い手です。
 私の着ていた純白のドレスも、今ではもうすっかり赤く染まっております。彼の手と同じ、赤い染料によって。
 ――立てる? お嬢様。
 彼は私を気遣うよう、優しく声をかけて下さいました。私は小さく頷き、彼の手を握り直します。彼の手に纏わり付くぬるりとした染料は、思っていたよりもずっと良いもののようでした。彼の手の温もりを私に届けてくれるかのようで、彼と私が一体になれるかのようで。
 とても、心地の良いものでした。
 割れた硝子窓から、冷たい風が吹き込んできます。蝋燭の炎が揺らめきを増し、今にも消えてしまいそうです。
 私は炎を庇うように、燭台をそっと手に取りました。胸元で、炎がゆらゆらと揺れております。蝋燭の明かりと染料で、私のドレスはもう真赤です。彼の手と同じ色。彼の服と同じ色。だからきっと、私は彼と同じになれるのです。願いが叶ったのですから、間違いようがありません。
 ――行こうか。
 彼は私の身体を抱きかかえ、決意を口にされました。いわゆるお姫様抱っこと云うものでしょうか。私の身体を抱いてしまったら、彼が動き辛いはず。けれども彼はそう云う感情を微塵も感じさせることなく、笑顔を絶やしておりません。彼はやはり、私のサンタクロースに他ならないのです。
 ――掴まって。
 私の手から燭台を取り上げ、机の上に置き直しました。この明かりはもう必要ないのでしょうか。私にはよく判りません。
 彼は、この部屋に入って来た時とは違う出入り口に、向かって歩いておりました。彼が来たのは窓からですので、私を抱えて戻るのは大変だったのでしょう。内鍵を開け木製の扉から廊下に出ると、満足気な笑みを浮かべておりました。
 ゆっくりと廊下を歩く彼の歩調に合わせ、私の身体が上下に揺れます。彼とひとつになっているような、不可思議な感覚。けれども、とても心地が好いのです。このままずっと、彼に抱かれていたいと思うほどに。
 何も明かりのない廊下はとても薄暗く、蝋燭があった方が良かったのではないかと思わされました。廊下の突き当りにある小さな窓だけが、月明かりを届けております。
 彼はとても目が良いのでしょう。夜目が効くと申しましょうか。廊下に転がるお人形の類を踏むことなく、確実に歩み続けておりました。サンタクロースと云う職業は活動の場が夜に限られていますから、夜目が効くのは当たり前なのかもしれませんけれども。
 螺旋階段に差し掛かり、彼の歩みが遅くなりました。一段ずつ慎重に進んでいるようです。私を抱えているから、あまり早く動けないのかもしれません。私は彼にとって足手纏いになっていないか、とても心配になりました。
 ――大丈夫?
 けれども彼はとても優しく尋ねて下さいましたから、私は頷き、心配に思う気持ちを封印することにしました。彼はサンタクロースなのですから、何でも出来るに違いありません。心配に思うと云うことは、それだけで彼を信用していないと云うことに繋がってしまうのです。彼は絶対なのです。
 みしみしと、階段が音を奏でておりました。これはきっと、聖夜を彩る賛美歌に違いありません。私の願いを叶えて下さった彼へ捧げる、なんて素敵な讃美歌でしょう。私も歌が歌えればよかったのですが、それが出来ないことが残念でなりません。心の中では、荘厳なパイプオルガンの調べが鳴り響いていると云うのに。
 階段を降り一階の廊下に着くと、闇はさらに広がりをみせておりました。私の眼には何も映りません。彼の温もりがなかったら凍えてしまうのではないかと云うほどに、真っ暗です。私の身体を抱く彼の腕に力強く触れ、存在を確かめました。
 私のサンタクロースは確かにここにいます。間違いありません。
 ――寒くない?
 私の感情が彼に伝わったのでしょう。優しく囁くように、彼が私を気遣って下さいました。この暗闇の中で頷いて彼に伝わるのでしょうか。若干心配ではありましたが、私にはそれしか意志の伝達方法がありませんので、大きく頷くことにしました。
 彼は私の身体をそっと床に降ろし、正面から抱き締めて下さいました。彼の温もりが私の正面から伝わってきます。心臓の鼓動が耳を刺激しています。
 ああ、身体が熱くなってきました。どうしたのでしょう。彼の存在を身近に感じてしまうから、身体が熱くなるのでしょうか。今の私はきっと、蝋燭の炎よりも熱いに違いありません。
 暗闇の中だから、私には彼の顔を見ることは適いません。けれども、私の身体を熱くする彼の温もりを、感じることは適います。見えないからこそ、身体がより反応するのでしょう。全身の血液が沸騰してしまうのではないかと思うほどに、私の身体は熱を帯びています。
 彼の温もりをこのまま感じ続けていたら、きっと、私の身体は溶けてしまいます。溶け出し、赤い染料となって、彼の身体を染めるでしょう。まるで先程の、父の身体のように。
 ――……ごめん。
 どのくらいの長い時間、抱き締められていたのでしょう。彼が言葉を発するのと同時に、鼓動が離れていきました。けれども私の身体には、彼の温もりが染み渡っています。凍えることも、不安に思うこともありません。
 彼は確かに存在していますし、彼は絶対の存在なのですから。
 ――ゆっくり、行こう。
 私の手を握り締め、彼が言います。どこに行くと云うのでしょうか。私には判りませんが、彼に従っていれば、間違いはないでしょう。
 何も見えない暗闇の中、彼にぴったりと張り付くようにして、私は歩きました。時折、前を歩く彼の足元でがさがさと何かが音を立てておりましたが、それはきっと、私が歩き易いように道を開けて下さっている音でしょう。彼はとても優しいのです。
 そう云えば、彼と初めて出会ったのはいつのことだったのでしょうか。私が自分の部屋の窓から庭を眺めていた時と云うのは間違いないと思うのですが、詳しいことは忘れてしまいました。
 あの時もまた、彼は今日のように赤いお洋服を着ていたような気がします。赤いお洋服に身を包み、私の部屋を見上げていたような気がします。だからこそ、私は彼との運命を感じたのです。
 頭の中で、パイプオルガンの荘厳な調べが鳴り響いております。大音量で、私を包み込むかのように。それは幻ではありますが、私の中では本物でもありました。彼と過ごす聖夜に相応しい、祝いの音楽。繋いだ手の温もりと共に、彼に伝わっているはずです。
 私は彼を愛しておりますし、彼もまた、私を愛して下さっています。だからこそ、私たちは言葉がなくとも通じ合えているのです。
 誰かを愛すると云うのは、とても尊いことなのです。たとえ犠牲を払っても、成就させなければいけないことなのです。彼と私は愛し合っていますから、こうなることは運命だったのでしょう。
 父は私を愛して下さいましたが、私は父を愛してはおりませんでした。まるでお人形のように父は私を愛でておりましたが、それは私の望む愛情とは違ったものでした。ですから、仕方がなかったのです。
 彼は私のことを“私”として見て下さいます。父のように何かの代替品としてではなく、本物の私を。
 ――この辺りは滑るから、気をつけて。
 玄関扉を開きながら、彼が声をかけて下さいました。薄く開いた扉から、月明かりが射し込んできます。彼の赤い手や私の染め上げられたお洋服が鮮やかな色を持ち、目に映ります。それと同時に、床に広がる真っ赤な液体も。
 この赤い染料は、父のものと同じなのでしょう。振り返ると、人形がたくさん転がっているのが見えました。これらから流れ出た液体が溜まり、色を成しているに違いありません。
 彼には人形を作る能力があります。私の部屋で眠る父も、もう人形になっているでしょう。
 ああ、そうです。思い出しました。私と彼との出会いは、今夜のように美しい月の出ている晩でした。月明かりに照らされた彼の身体は濡れていて、赤く艶めいた光を放っておりました。真っ赤なお洋服に身を包み、鈍色の金属を手に持っていらっしゃいました。
 思うに、あの金属が私へのプレゼントだったのでしょう。今は父の腹の中で眠っている、あの金属が。
 ――月が、綺麗だね。
 素足のまま外に出た私を抱え上げ、彼が呟きました。空を見上げると、確かに月が美しく輝いています。私は頷き、彼の首筋へと腕を伸ばしました。
 今夜は聖夜です。愛し合う私たちのための、聖なる夜なのです。
 サンタクロースがポケットからマッチを取り出しました。火を点け、家へと放ちます。乾燥した家はたちまち燃え上がり、揺らめく炎に包まれました。それはまるで、蝋燭の頼りない炎が大きく変化したかのように。
 ――行こうか、お嬢様。
 大きな蝋燭の炎は、私たちを照らしました。赤く染まった身体に、炎の熱気が降り注ぎます。うねり揺らめく彼の姿に、私は心の疼きを感じてしまいました。彼を欲しているのでしょう。今よりももっと、身近に感じたいと願っているのでしょう。
 炎に染め上げられた彼の頬に、そっと唇を寄せました。すると、触れた個所から熱を帯び、全身に広がっていきます。私の身体が溶けだし、彼と一体になるかのようです。
 ――ずっと、一緒にいようね。
 彼が微笑みます。初めて出会った時と同じ月明かりを浴びて。
 彼が口ずさみます。私の中で鳴り響く、荘厳な讃美歌の調べを。
 彼が頷きます。言葉を持たない、私のように。

【完】


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