海辺から続く真っ直ぐな坂の上に、大きな屋敷が二棟
板張りの壁面は白く塗られており、象牙のようにつるりとしていて。赤い瓦屋根と相まって、まるで玩具のように非現実的な雰囲気を醸し出している。此の御時勢に於いては御法度とも思われる、派手な配色。
地元の子供たち曰く“人形屋敷”。不可思議な其の響きが、如何にも良く似合っている。
海辺にある
道中、子供たちの声が聞こえた。人形屋敷の話を聞き
ふと思い立ち、歩みを止めた。振り返り海を見下ろすと、小さな入り江が目に映る。漁船が疎らに停泊しており、お零れを狙う海鳥が飛び交い。漁港と呼ぶには規模が小さく、かと云って他の呼び名も見当たらず。殆ど働き手がいない所為か、酷くうらぶれてしまっている。其の様は、何処か寂しげで。
自然、溜息が漏れていた。
からり、と下駄が音を立てる。僕は再び、坂道を歩み始めた。親戚の家は此の坂を登り切った場所に建っている。丁度、そう。人形屋敷の直ぐ隣に。
成る
判っている。知っている。僕の欠陥は僕の所為ではないにしろ、其れが事実に変わりはないと云うことは。
坂を駆け上るよう、爽やかな海風が吹く。潮の香り、夏の匂い。背を押すが如き其れに従い、僕は
形式的な挨拶を済ませ、与えられた部屋へと向かう。親戚夫妻は僕には
御案内しますと言ったきり無言の女中を追うように、板張りの廊下を進んだ。
外の景色を眺めるよう、ゆっくりと足を進める。
「勝之助様の御部屋は、
いつの間にか立ち止まっていた女中が、僕を振り返り口を開いた。真鍮製の取っ手を捻り、扉を引く。どうやら
「案内、有難う。」
礼を述べ、もう大丈夫だと告げた。部屋迄の距離はまだあるが、場所が判れば問題はない。そそくさと戻る白髪混じりの背中を見詰め、誰にも聞かれないよう、僕は小さな溜息を吐いた。
庭木に目を遣りつつ、部屋へと向かう。硝子越しの歪んだ緑が、一歩進む
開いた扉に手を掛ける。ゆっくりと、部屋に足を踏み入れた。文机と本棚が置かれ、真新しい畳が心地
硝子越しに外を見遣ると、ぼんやりと赤いものが目に映った。生い茂る庭木の向こう側、紅葉にしては早過ぎる。僕は硝子戸を薄く引き開け、外の景色を確認した。赤いものは瓦屋根で、其の下には白い板張りの壁面もあり。
人形屋敷らしい。そう云えば、親戚宅の隣に存在しているのであった。部屋から見えていたとしても、然して可笑しなことではない。
緑の隙間から覗いただけではあるのだが、
ほう、と。思わず息を漏らしていた。感嘆と畏怖を織り交ぜた、例えようのない感情と共に。
格子戸を開け放ち、部屋の中に風を採り入れる。潮の香りは余りしない。代わりに、むわりとした草いきれが立ち込めていた。掃き出し窓を兼用しているらしく、敷居の外は直ぐ庭であり。
出てみようかと思ったが、止めた。怪我でもして迷惑を掛けてはならないし、何より此処には、僕用の履物がないのだから。
目を
暫く、或いは一生であろうか。僕は此処で過ごすことになる。ひっそりと、家の外に出ることもなく。此の年齢から隠居生活を送らねばならないと云うのは屈辱的でしかなかったが、仕方のないことであると云うのもどうしようもなく自覚していて。
せめて人並みの身体を持って産まれて来たかった、と、叶わぬ願いを唱えてみた。風に掻き消される程の小さな声で。囁くように、呟くように。
板張りの廊下は滑り易く、僕が独りで歩くには、少しばかり不都合が多い。元より走ることの適わぬ身体ではあるのだが、余りにゆっくり過ぎるのも性に合わず。かと云って独りで動けない訳でもないので、人の手を借りる気も起きず。
結果、忙しく動き回る使用人たちに、迷惑を掛けることとなっていた。
僕の左脚は、殆ど機能していない。其れは産まれ付きであり僕の所為ではないのだが、肩身の狭さは仕方のないことでもあった。
此の年齢で疎開する羽目になったのは、此の身体の所為であり。
「勝之助様、御足下、宜しいでしょうか、」
いつまでも半人前でしかないのも、不自由な身体の所為であった。
「あ、……ああ。大丈夫だ。」
手摺り代わりに壁に手を突き、廊下を緩慢に進む。自室に籠っていれば誰にも迷惑を掛けずに済むであろうことは、判っている。判っているが、どうしても気に掛かるので仕方がない。
部屋から見える人形屋敷。幾ら無人とは云え他人の家に勝手に上がり込むことは出来ないが、近寄る程度は許されるはずだ。其の為には、下駄が必要で。
本来であれば、女中にでも持って来させれば良いのであろう。けれども、僕如きが命令を下すと云うのは、流石に憚られるように思う。尤も、咎められる可能性を、考慮してのことでもあるのだが。
唯でさえ、半人前の此の身体。其の上、余所様の屋敷を観察しよう、などとは。恥知らずにも程がある。
愚かしいと思う、自分でも。
ふと窓を見遣ると、陽光に照らされた庭木が目に映る。歪んだ硝子の御陰か、緑が空に混じって見えて。例えるならば、水で溶かした染料のよう。曖昧な境目と、くっきりとした色の違い。風が吹く度、歩く度。姿を変え、形を保たず。唯、ゆらゆらと。
木に覆われるように建っているからなのであろう。此の屋敷内は夏だと云うのにやや涼しく、過ごし易いように感じた。潮の香りがしない為か、高原のような爽やかささえも覚える。住み心地は悪くないはずだ。けれども。
年老いた身で隠居をするには適しているが、果たして、若い身空の僕が此の先永住するに足る場所か否か。其れは、別の問題であった。
左足を擦るように、玄関へと進む。治療法もなく常に片足を引いている身で良くも此の年迄、とは、自分でも感じている。恥知らずも甚だしいが、お情けで命を永らえているだけであると云うのは、僕が一番良く知っていて。
廊下の角を曲がると、玄関が見えた。
僕の下駄は特製品で、予め足袋が縫い付けられており。右は通常の下駄と然程変わりないが、左は綿の詰められた足袋が脛辺り迄伸びている。不格好な一揃い。左は差し詰め、
だからこそ、はっきりと口にしなくとも。
「此方で、御座いましょうか、」
何も言わずとも、伝わってしまう。其れは余り、気分の良いことではなかった。
「ああ、有難う。」
見るからに歪な下駄を受け取り、足に嵌める。履くと云うより嵌めると云う表現の方が、しっくりときてしまう作業。外履きになってしまった方が、歩き易いと云う事実。足首から下が存在していないのだから、当然と言えば当然であるが。
「何処かへ、お出掛けなさるのですか、」
奇異の目を隠そうとしつつ、下女が疑問を口にする。
「否、……ああ、そうだ。」
否定するのも面倒なので僕は其れを肯定し、其の儘、庭先へと踏み出した。庭伝いに自室へと戻れば良いであろう。どうせ此の先、まともに外出する用事など、ないのだから。
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