人影を、見た気がする。もちろんそんなはずもなく、気の所為であろうことは判っていた。人形屋敷に人はいない。子供たちの言葉は勿論のこと、近くで見ているのでよりはっきりと、そう思う。人の気配は疎か、生活の匂いもしないのである。
薄く生えた草を擦り歩き、人形屋敷へと向かった。屋敷の周囲は驚く程狭く、境に立てられた四つ目垣は白壁に張り付く程近い。垣根の手入れは行き届いていたが、此れは
何故か、間近で確認したく思う。
ざり、と、足を引き近寄った。下駄が擦れてしまうが、仕方がない。頑丈に作られているので、壊れることはないであろう。万が一、足袋部分が破れ綿が出てしまったとしても、誰かに直させれば良いだけで。
まるで縫い包み人形だ、僕の左足は。右と比べ薄汚れた足元を見て、自虐的に思う。常に人形を身に付けているから、人形屋敷に心惹かれてしまうのだ、と。
「……人形、か、」
お情けで生かされている身も、何も成せない存在も。人形のようなものかもしれない。ならば、一人前になれなくて当然だ。
溜息を吐き、人形屋敷の壁に手を伸ばした。つるりとした感触。板張りとは思えない程に、艶やかで滑らかな。
ざああ。唐突、強い風が吹き抜ける。
「……あ、」
風の音に耳を奪われた。草木の奏でるさざめきが、掻き消すように声を載せ。
「
まさに鈴を転がすような。
「
其の声を微かに、けれども
はっとし、壁に突いた手を離す。勢い身体が倒れ掛けたが、どうにか右足で踏み止まった。誰の声か、何処から聞こえたのか。うっすらと予想を立てながらも、半信半疑に成らざるを得ず。
身体の均衡に気を配りつつ、周囲を見回した。かたん。微かに聞こえる、窓枠を動かす音。釣られ、人形屋敷に目を移す。相変わらず人の気配を感じぬままだが、確かに其処に、何かいる。
子供たちに無人と言わしめ、置物のような佇まいを保ち。尚且つ、人が住んでいるとでも云うのであろうか。
「……もし、其方様、」
薄く開いた片開き窓から細い腕をすっと出し、声の主が続けた。
「私の姿が見えてらっしゃるのですか、」
白くしなやかな、セルロイド人形のような手。ひらり、宙を舞う。見るからに滑らかな肌は、恐ろしい程に血の気を感じず。本当に、人非ざる者なのではないか。
ごくり。無意識、息を呑んだ。
庭木のざわめきが、一層激しくなる。強い風。煽られ、身体が
「危のう御座いますわ。」
片開き窓を全開し、鈴の音の主が顔を出した。品の良い赤銅色の
「此方の御屋敷の方では、御座いませんのね、」
柔らかく、笑んだ。
先程見えた人影は、大方此の女性のものであろう。顔と腕しか確認出来ないが、人であることに間違いはない。一瞬とは云え疑ってしまうとは。僕は自分を、恥じた。
生活感の何もない此の屋敷に人がいたことには驚いたが、無人だと云う先入観を、勝手に抱いていたに過ぎず。子供たちの会話と外観から、思い込んでいただけなのである。一方的に。
「……ええ、まあ。」
曖昧な答えを口にし、改めて女性を見遣った。白い肌、亜麻色の髪。空に似た青色の瞳。酷く面妖ではあるが、眉目は若く美しく。鈴を張ったような目で、僕の足元を眺めている。
まじまじと足を見られることは、当然ながら好きではない。
仄僅か、嬉しかった。
伸ばしたままの白い手を軽やかに動かし、女性が窓際へ手招く。誘われるまま僕は近寄り、四つ目垣に手を掛けた。竹がしなり、みしりと音を立てる。余り体重を掛けてはならないらしい。
「御足、御悪いのですか、」
普段なら一番言われたくない言葉。併し、不思議と嫌な気はせず。
「……ええ、産まれ付きです。」
さらりと、言葉を返すことが出来た。侮蔑や奇異の感情を、覚えなかったからであろう。其れこそ、微塵も。
「ああ、だからですのね。」
セルロイドの手を伸ばし、女性が僕の手を掴む。ひんやりとした感触。血の通わぬ人形のように冷たく、作り物のようにつるりとしていて。まるで、そう。人形屋敷の外壁に似た。
「お気を付け下さいまし。」
僕ははっとし、勢い女性の手を払っていた。気付いてしまったのだ。女性の容姿が毛
反射的な咄嗟の行動。自分を見詰める他人の如く冷たい瞳を、無意識、此の女性に向けていた。
「あ、」
頬を掠める風の音。仄僅か、磯の香りが漂ってくる。
「……彼の、」
罪悪感。僕は、他者を蔑めるような立場の人間などではない。半端者の、片足人形でしかないのだ。其れに何より、此の女性も。
「そ、其の、」
案ずるに、何か事情があって此のような容姿をしているのであろう。
「……す、すみません。」
粗忽な行為を詫び、
「其の、……女性には、不慣れなものですから。」
浅はかな言い訳ではあるが、口にする。縁が途切れてしまうことを、恐れていたのかもしれない。心惹かれた訳ではないが、興味を抱いているのは事実であり。
「私こそ、馴れ馴れしくて申し訳有りませんでしたわ、」
人形屋敷に住むセルロイドの女性。人形の如く整った容姿に、白く滑らかで冷たい肌。そして恐らくは。
「御名前も知らない殿方ですのに。」
僕と同じ、蔑まれて
「……勝之助と、申します。」
畏怖の念を抱きつつ親近感を覚えるのは、極当然の成り行きであろう。
「勝之助様と仰るのですね。私の名は、八重。八重と申しますわ。」
生活感のない建物は、日陰でひっそりと暮らす為の、知恵や手段なのかもしれない。子供たちが人形屋敷と呼んでいたのは、八重の眉目を人形と、形容してのことかもしれない。
否、形容していたのではなく、八重を人形と思い込んでいたのであろう。子供たちは皆、人形屋敷は無人だと、言っていたのであるから。
「……勝之助様、」
心地好い風が、頬を撫ぜた。ゆっくりと、日が西へ傾く。夜の帳がもう直ぐ降りる。
「明日も、此方にいらっしゃいますか、」
セルロイドと縫い包み。人形同士が仲良くするのは、問題のないことであろう。
「ええ。……暫くは、」
けれども、胸の奥がざわつく感覚に囚われた。迷惑に繋がるのではないか。そう云う、不安に拠るものであろう。
「明日も御話、出来ますかしら、」
八重の問い掛けに、僕は黙って頷いた。恐れる必要などないのだ。そう、自分に言い聞かせ。
目を細め、八重を見詰めた。白い肌、青い瞳。亜麻色の髪に、傾く西日が映える。庭木を揺らす風、八重の微笑み。心地好く、吹き抜ける。
人形屋敷に住む人形。僕の存在を肯定する者。奇異も侮蔑も混ざらぬ瞳は、産まれて此の方出会ったことなく。
初めての存在。顔色を窺うときとは違う、心からの笑みを。自然、僕は、浮かべていた。
此方に世話になり始めてから、毎日晴天が続いていた。僕は部屋から庭を眺め、風の音を聞く。日課のような、疎ましく安らかな時間。女中が置いていく
朝夕二回の凪を除き、日中はほぼ、風が吹いている。さらさらと流れる音は心地好く、人形には出来過ぎな環境で。
初日以来、親戚夫妻とは顔を合わせてすらいない。あからさまに疎まれていると判っていながらも、顔を合わせずに済むのは、気の休まる思いでもあり。
「……様、」
出来損ない同士傷を舐め合う行為も又、気の休まる思いであった。
「勝之助様。」
人形屋敷の片開き窓を開け、八重が僕を呼ぶ。此れも日課のような出来事。曰く、人形の戯れ合い。
僕は下駄を嵌め、庭に下りた。長靴の方が理に適うことは判っていたが、下駄を履くことは諦められない。愚かしい話ではある。けれども、どうあっても。僕は半人前から抜け出したいと願っていた。せめて見て
セルロイドが窓を開け、僕が其れに寄る。立ち話しかしないのは、僕が履物を脱ぐことを、嫌うからに他ならない。尤も、許嫁でもない女性宅に上がり込むような真似など、出来るはずもないのであるが。
「今日も良い天気ですわね。」
併し、思う。恐らく八重は、其れすら気にしないであろう、と。
「此処のところ、毎日晴天が続いている。此の地方に雨は降らないのですか、」
白壁に背を預け、腕を組む。ふわり漂う磯の香りが、鼻の奥を
「降りますわ。勝之助様がいらっしゃる数日前にも、大雨が降りましたもの。」
八重の亜麻色の髪が、陽光を浴び金色に近い光を放つ。彼女にとても似合っているし美しいようにも思うのだが、矢張りどうしても、畏怖の念を抱いてしまう。
けれども其れは、仕方のないことでもあった。少なくとも、僕の足が奇異の目で見られることと、同じ程度には。
「……そうですか。」
ぶっきら棒な相槌を打つと、八重は如何にも可笑しなことだと言わんばかりに笑い出した。其れこそ、鈴の音のようにころころと。
「勝之助様は、雨が御嫌いですの、」
八重の笑う切っ掛けが、僕には少しも判らない。ほんの些細な事柄で、いつも楽しげに笑い出す。だから僕は、釣られるよう誘われるよう、無意識の内に笑みを零してしまうのだ。
「否、嫌いでは、ありませんが、」
不思議な女性だと思う。セルロイド人形のような眉目の所為だけでなく、何と云うか、不可思議な雰囲気を持っていて。虐げられ蔑まれて来たはずにも拘わらず、何処か自由で奔放であった。
組んでいた手を解き、八重の髪に手を伸ばす。破廉恥極まりない行為だが、自然、気恥ずかしさはなく。
「どうか、……なさいました、」
絹のように艶やかで滑らかな髪に触れ、目映いものを見詰めるが如く、目を細めた。さわさわと、流れる風の音が耳に届く。
「……絹糸のようですね、
温かな日差し、涼しい夏の午後。穏やかな心地。たおやかな。
「嫌ですわ、勝之助様ったら。」
八重の存在。
「お褒めくだすっても、私、何も出せませんわよ、」
僕は此処で隠居生活を送る気には、矢張り成れないままではあった。併し彼女の存在が、安らぎになっているのも確かで。
「そうでは、ありません。」
共に歩んでいけるのであれば、此の生活も悪くない。そう、感じてしまうのだ。人形風情には出来過ぎな日々。失うことが、恐ろしい。
人形屋敷に住まう人形。隣の屋敷に隠れ住む僕。窓越しに言葉を交わす日々。若しも僕に欠陥がなければ、出会うことすらなかったであろう。或いは出会っていたとして、此のように親しく話をしていたか。
判らない。併し若し、僕が通常であったとしたならば。八重のことを、忌み嫌っていたのかもしれない。上辺を、外貌だけを基にして。
其れはとても、怖いことのように思えた。
「……もし、勝之助様、」
暫し考え浸っていると、八重がそっと、囁いた。
「明日は、雨が降りますわ。」
予言の如き、確信を持った言い回し。僕は其れに促されるよう、ゆっくりと空を見上げた。広く青く、高い空。夏らしく、入道雲が鎮座している。
「其のようには、見えませんが、」
空の青、透き通る青。八重の瞳に良く似た色で。
「降りますわ、確実に。明日は、如何なさいます、」
吸い込まれそうになる。現実を失う程の透明感に、僕は何故か、恐怖した。何が恐ろしいのかは判らない。青空も八重も、恐れを抱く対象ではなく、
「……明日が雨なら、部屋に籠ります。」
けれども。敢えて云うのであれば。僕が通常を、願っているからなのであろう。例え八重を忌み嫌うことを、通常と呼ぶのだとしても。
僕は其れ程迄に、愚かしく。愚かしいことが、恐ろしいのだ。
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