夏の家で豊兄の帰宅を待っている間、夏はほとんど口を開かなかった。
勝手知ったる我が家のように、慣れ親しんだ夏の家。幼い頃はしょっちゅう遊びに来ていた。夏と付き合うようになってからも、相変わらずしょっちゅう来ていたことに変わりはないが。
リビングのソファに並んで座り、適当に入れた甘ったるくて不味いココアを飲む。夏がいつも飲んでいるものはこんなにも甘かったのかと、不謹慎ながら噴き出しそうになっちまった。
当り前な顔でココアを飲み干す夏に、俺は自分の飲みかけのココアを押し付ける。これはさすがに飲めやしない。とはいえ別に、夏が飲む必要もない。俺がもういらないだけだ。
テレビは点けていない。音があった方が気が紛れるかもしれないが、山田なるみのニュースをやらないとも限らない。それはあまり、夏には見せたくない。
ふいに、玄関のチャイムが鳴った。多分、いや、間違いなく。豊兄が帰ってきた音だろう。
「夏、ちょっと行って来るな」
俺は夏に声をかけると、そのまま玄関へと向かった。内側から鍵を解除し、扉を開く。外にいたのは豊兄と、豊兄の高校の制服を着た二人組。家電屋の袋を手に持ち、楽しそうにはしゃいでいる。
「……ああ、タカ。悪いな、友達が一緒なんだよ」
申し訳なさそうに俺に謝る豊兄とは対照的に、後ろの二人組は妙に楽しそうだった。背が高い方の男が、俺を見て「妹に見えない」と言っている。当り前だ。俺は豊兄の妹じゃねえ。大体、高校の制服のままなんだから、男だって察しがつくだろうが。この節穴野郎が。
俺はのっぽを軽く睨みつけ、夏とリビングにいた旨を伝えた。
豊兄は家に上がると、リビングではなく自室に向かった。荷物を置きに行くためか、友達が来ているからか。当り前のようにはしゃぎながら、二人組が後に続く。豊兄たちが階段を上りきったことを確認し、玄関の鍵を閉めた。
夏の家は、四人家族だ。夏と豊兄とおじさんとおばさん。おじさんとおばさんは、共働きで忙しい。メールアドレスを知っているのが豊兄だけだったこともあり、俺は急いで帰って来るようにメールを送った。簡単な事情説明とともに。
でもまさか、友人を連れて来るとは。しかも豊兄の高校は進学校のはずなのに、連れてきた友人はかなり馬鹿っぽい。あれなら、俺の方が賢いような気さえする。
まあ、勉強じゃあ到底敵わねえだろうことは、さすがに百も承知だが。
リビングに戻り、夏の隣に腰掛ける。小刻みに震える夏の肩を抱き、俺は煙草を取り出した。ピース。そういや、山田なるみはピースの手掛りを見付けたって、関口さんに電話をしていたんだっけ。都市伝説に手掛りなんてものがあるのか、俺には判りようもねえけど。
「……それ」
夏が俺の煙草を指差す。
「ピース、だよね……?」
俺は頷き、箱を眺めた。鳩の絵の描いてあるデザイン。平和の象徴。鳩。
「なるみ、何で自殺なんてしたんだろう……」
「……うん」
鳩。山田なるみの荷物の中には、鳩の羽が混ざっていたらしい。夏の学校に着いてから連絡を入れる前に、俺が自分なりに調べた結果だ。携帯電話でニュースを調べるのは初めてだったが、意外とあっさりと見付けられたのは良かった。
――自殺した女子高校生のものと思われる荷物の中には、鳩の羽が。
ひどくセンセーショナルってわけじゃねえが、ワイドショーあたりで取り上げそうな話題だと思う。今まで全然そんな風に考えたことはなかったけど、こういうのを“死者への冒涜”って言うんだろうな。
でも、まあ。今回の件だって。俺の知り合いじゃなかったら、興味だけで話を聞いていただろう。つまりは、あれだ。他人事なら、不幸でも何でも面白い。
なんてこった。俺は自分が人でなしだってことに、初めて気が付いちまった。
「……ねえ、タカ」
夏は言いながら手を差し出す。
「箱、頂戴」
そういやそんな約束していたっけな。鳩の柄。鳩。山田なるみの遺留品に鳩の羽が混ざっていたことを、夏は知らない。何となく、夏に鳩はあげたくない。今は知らなくても、いずれは必ず知ることになる。ピースと鳩。あまりにもでき過ぎている。
「まだ入ってるから」
空になっても渡す気はないが、一応そう答えておいた。
「ケチ……」
豊兄が帰って来たからか、夏は少しだけ元気を取り戻したような気がする。さっきまではこんなに喋らなかったし、俺の行動も、見ているのか見ていないのか判らねえ反応だったのに。
やっぱり俺なんかじゃ、役に立てないのかもしれない。
手で持ったままになっていた煙草に火を点け、キッチンへ向かう。慣れ親しんだ家とはいえ、一応、よそ様のお宅だ。リビングで吸うのもはばかられる。
換気扇をつけ、煙草をふかす。リビングとキッチンは繋がっていて、ここからでも夏の様子は窺える。俺が手を振ると、夏は手を振り返した。
泣き腫らしたせいで腫れぼったくなっている瞼が、妙に痛々しい。ぎこちない笑顔で微笑む夏は、それでもやっぱり放って置けない。役立たずでも何でも構わない。お互い支え合うってのが、大事なんだと思う。
俺は意外と、夏に救われたことが多々あったりする。まあ、本人には恥ずかしくて言っちゃいないが。
夏休みのバイト先でやらかした喫茶店大乱闘事件のときなんて、夏が来てくれなきゃ俺は今頃どうなっていたことか。こんな風に普通の高校生でいられるのは、全部、夏のおかげだ。
俺にとって。夏は大事な彼女でもあり、ストッパーでもある。間違いなく。
携帯灰皿で煙草を揉み消し夏の元へと戻ろうとすると、リビングに豊兄が入ってきた。玄関に置きっぱなしていた新聞を手に持っている。まずい。新聞にはきっと、山田なるみの記事が載っている。
「……ユタ兄」
足早に豊兄のそばに駆け寄り、新聞を奪い取った。こんな風に隠し続けても、何の意味もないことは判っている。判っちゃいるが、今はまだ早い。
夏は優しい。態度はでかいし口は悪いけど、俺なんかよりよっぽど優しい。親友が自殺した、なんて、耐えられないんじゃないかってくらいに優しい。
だから俺は、力不足かもしれねえけど、できる限り夏を守りたい。
「ユタ兄。新聞は持ってっちゃって下さい」
不自然な笑顔で俺は続ける。
「ほら、その、必要ねえっすし」
自分でも言っていて支離滅裂だと思う。豊兄は口元に手を持っていき、考え込むような表情を見せた。
「……ああ、そうするわ」
何か思いついたのか、俺の不自然な態度から察したのかは判らねえが、豊兄は新聞を隠すように手に持った。キッチンへ行き、冷蔵庫から冷えた麦茶のボトルを取り出す。来客用らしきコップを三個重ね、新聞とは反対の手で持とうとしている。
ひどくバランスの取り辛そうな状態。俺は手伝おうと豊兄の元へと向かったが、大丈夫だから、と一蹴されてしまった。
「そうだ、タカ」
リビングの扉の前で、豊兄が振り返る。
「……ありがとうな」
何についてかは知らねえけど、豊兄に礼を述べられた。どうすれば良いのか判らないので、俺は黙って頭を下げる。豊兄は納得したらしく、そのまま階段へと歩いていった。
「……ピース……」
ソファへと戻る途中で、夏の呟きが聞こえた。
「……ピース、幸せ……」
ぶつぶつと、まるで呪文か何かのように。ピース。幸せ。鳩。平和。山田なるみはピースを手に入れようとして、自殺した。ピースが何かは判らない。
遺留品から出てきた鳩の羽。ピースの手掛り。
鳩が、関係しているような気がしてならない。だがそれ以上は、俺の頭の容量を超えちまっているせいか、上手く考えが纏まらない。
ピース。鳩。煙草の鳩は、オリーブの葉を咥えている。確か、新天地が近いことを象徴したデザインだったはずだ。前に興味半分で聞いただけだから、間違っているかもしれないけど。
平和。鳩の羽。ピース。繋がりそうで繋がらない。もう少しで何かが掴めそうなのに、これ以上は手を伸ばせない。
ピース。お前は一体、ナニモノだ?
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