今日も僕はカメラを構える。空を、写すためだ。
頭上に広がる青い空。突き抜けるような快晴の空。降り注ぐ太陽の温もり。それら全てを、切り取るためだ。
ファインダー越しに覗く空は眩しくて。眩し過ぎて、僕の目には映らない。だから僕は、シャッターを切る。綺麗に写っているかなんて判らない。現像しなければ、判らない。
「……あっついなあ」
快晴の空、八月の昼過ぎ。カメラを構える僕の額に、汗が滲む。Tシャツの袖から伸びている腕が、じりじりと焼け焦げていく。病院の屋上はとても暑く、地上よりも幾分か太陽に近い。
どうやらここは、ひなたのようだ。
なるべく誰も来ないようにと祈りながら、周囲を見回した。完全に日陰になっている場所は僕にも見える。周囲がぼやけていても、僕には判る。経験は大事だ。ようやくこの環境にも慣れてきて、ようやくこの体質にも慣れてきた。
ふいに、目が留まる。屋上の端の方、角になっている場所。おそらく給水塔の影になっているのだろう。はっきりと手すりが見える。白いペンキで塗られた鉄製の柵が、影の色に染まっているのが判る。
ゆっくりと摺り足で、地面を確認するように。影に向かって歩いた。この時間の屋上には誰も来ないはずだけれども、何もおこらないとは限らない。
ひどく面倒だと思う。僕の身体は。
「あっつい」
例えば全てが見えないのであれば、他人にも理解してもらえるのだろう。けれども僕には見えている。見えないのは。
「ああ、喉乾いた」
見えないのは、動くもの。流れる雲、人波。移りゆく影。シャッタースピードを落としたカメラのような、僕の視界。ぼんやりとした、残像の世界。
揺れる木々は緑の塊で、大空を羽ばたく鳥はかすかな線。漂う雲は曖昧な輪郭で、写真の中の雲のようにはっきりとした形を見ることは適わない。影とひなたの境は滲み、手にしたカメラは目視出来ない。
誰にも理解されない世界。中途半端に見ることの出来る僕には、中途半端な同情も集まらない。集まるのは、研究対象としての好奇の眼差しのみ。
それでも、見られるだけ良かったと。そう、思う。
おそらくこれは、交通事故の後遺症なのだろう。数か月前までは、僕の世界は動いていた。揺らめく木漏れ日も、手を振る彼女の姿も。
今はもう、見ることの適わない。それら、全てを。
「あっついな本当」
見えない手で額を拭う。触れた感覚はあるけれども、目には映らない。
触っているという感覚だけでカメラを構え、ファインダーと思われる場所に視線を移す。どちらにせよ、何も見えないことに変わりはないのだが。
動きのないゆったりとした世界。彼女のいない世界。
シャッターボタンを押し、上手に撮れていることを願う。あの日と同じ青空を見ることが適えば、僕の世界は動きを取り戻すと信じて。
かしゃり、と、いかにもな音が響く。撮影は出来たのだろう。何の変哲もない、機能の少ない三十五ミリフィルム用カメラ。オートフォーカスと自動巻だけが付いている。
その他の機能は必要ない。僕には見えないし、使いこなせないのだから。
幾度かシャッターを切っていると、フィルムの残りが無くなったらしく、無機質な巻き取り音が聞こえてきた。
今日はもう、お終いだ。
フィルムは一日一本まで。あまり枚数を撮り過ぎてしまうと確認作業が大変なので、二十四枚撮りフィルムを一本と決めている。今日のように天気が良い日は、フィルムがなくなるのも早い。
現像には二日かかる。今日の空を見るのは二日後だろう。僕が切り取った世界を確認出来るのは、二日後だ。
今日こそあの日の空が見たい。いつもそう願っているけれども、未だあの空には出会えていない。彼女の微笑みの後ろに広がる、あの空には。
カメラを握りしめ、扉のある方向へと進む。誰も来なければ良い。動かなければ見える。少しでも動いてしまうと、見ることは適わなくなってしまう。
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