雨の日は屋上には上がれない。降り注ぐ雨粒のせいで全てが曖昧にぼやけてしまうからだ。仕方なく病室に籠り、撮り貯めた空の写真を眺める。
青空に浮かぶ雲。流れるさまは既に記憶の彼方へと葬られ、思い出すこともままならない。彼女の笑顔と同じ。思い出せそうにない。
死んでからも流れ続ける時間により、僕の記憶はどんどんと抜け落ちている。写真として切り取られた空を見ても判らなくなってくる。青いのが空なのか、白いのが空なのか。
けれどもどちらでもいいのかもしれない。それは、些細な違いなのだから。
窓を叩く風雨の音は聞こえても、見ることは適わない。見られないのならば、確認出来ないのならば。
どちらであっても、変わらないだろう。
「入ります」
扉を叩く音とともに、看護師が入ってくる。入ってきた、音がする。床を叩く靴音。白衣の擦れる音。ボードの前に立ち、写真を貼り替えているらしき、残像。
何故見えないのか。そこにいるのは判っているのに、確認することは適わない。
「新しい写真、貼っておきましたからね」
二十三枚の写真たち。一枚は、看護師がミスした分だろう。
「もうすぐ秋ですね」
窓の外の滲んだ世界を眺め、呟く。青空は失われた。
「雨の日が増えますね」
写真を撮れない日が、増えそうだ。
看護師が二十四枚目の写真を貼り出した。病室内を切り取った、意味のない写真。いや、意味がある写真など、この中に一枚だってあるのだろうか。現在ではない画像など、意味があるのだろうか。
僕の自己満足にすらなり得ない。いくら過去を眺めても、あの日の空は戻ってこないのだから。
「紅葉が綺麗ですよ、きっと」
看護師が述べる。この病院からは山の紅葉が見えるのだ、と。
見えるから何だというのか。滲んだ色でしか確認出来ない僕にとって、山の季節など関係ない。変化を見せる事象など、関係ない。
「そうですか」
切り取ることしか適わぬ世界など、関係ない。
ボードの前から看護師が移動し、僕の目に写真が映る。貼り出された二十四枚。その中に一枚だけ、空の写っていない写真があった。
僕の撮影したものとは違う。看護師が切り取ったものだ。見覚えのある病室の光景。固定されたものの多いこの部屋は、普段の僕の視界と然程変わらない。
しかし。
知らないものも写っている。例えば、点滴の液体。看護師の服の袖。
見覚えのある顔。
虚ろな瞳に何も感じさせない表情。僕自身。生気のない、僕の姿。既に死んでいるはずの。
けれども。
「……これって、この間のですよね?」
自分では気付かなかった、いや、気付けなかった事実とともに写り込んでいた。
例えば、僕の髪は整えられていて、髭は綺麗に剃られている。着ているのは薄い青色のパジャマで、頬が昔より少しだけ薄くなっていて。
見えないけれども、存在している。存在していた、僕の姿。死んでいたはずの、僕の姿が切り取られている。
「そうです。……綺麗に撮れていたんで貼ってみましたけど、剥がしますか?」
彼女のいない、僕の世界。
「いえ、大丈夫です。それより……」
生きていた僕。
「僕ですか、これ」
死んでいなかった僕。
「はい」
少なくとも。この切り取られた世界には、存在している僕の姿。
「……生きてるんですね、僕」
見えないだけで存在している。僕も、看護師も。
「生きてますよ、もちろん」
生きている。僕も、看護師も。
見られなくても、感じられる。耳で、手で、鼻で。
停止しているのは僕の視界だけで、他はまだ。
「……生きてる……」
僕はまだ、辛うじて生きていた。あの日の空を見ることが適わなくても。
生きている。生きていく。
あの日よりも青い空を求めて。
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